市場の外から

「考えさせられる」ということについて。何度も聞いた事があるであろう、ノーバリューな返答の代名詞である「考えさせられる」という言葉について少し考えた、いや正確には熟慮したというよりはパッと思いついたままに書いてみようと思う。無論この発言は予防線だが、熟慮できたとしても今のコンディションでは似たり寄ったりだろう。



この言葉の無意味さはこれまであらゆる場所で指摘されているように思う。多分、古代ギリシャの石盤とかにも書かれているだろう。無意味というよりは情報量が皆無であるので何が言いたいのか分からないので無駄である。貴重な時間と言う資源が無駄であり、合理的な経済人の振る舞いとして相応しくないと言っておくべきだろうか。



しかしながら、大学に入ってから、大学に入る前から幾度となくこの言葉に対する指摘を散見してもなお、依然としてこの指摘がある程度の力を持っているように思われるのは何故だろうかと少し考えてみた。勿論僕の思い込みという話もあるのだろうが、これだけ言われるということは何らかのメリットがあるのだろうなあと思った訳である。



思うに、
1、大学の講義の出欠カード代わり
2、フィードバックを出したくない
3、しっかりした意見を言わない方がいい


の3つの働きがあるのではないかと勝手に考えた。



まず一つ目の仮説について。発言というものがその場でどういう役割を果たしているものなのかという詳細キボンヌ的なサムシングについては正確には知らないが、有益の度合いはともかく、余程マジキチな意見以外ならば言った方がいいのではないかと思う。それは、その場に参加しその空間を構成した人にとって、重要な事であると思う。多分、西先生が言っていたU-Streamで見るのと生の講演会で話を聞くときの差異みたいなものに通じるものがあるのでないかと自分の狭い経験から勝手に考えさせてもらった。



行きすがりの集まりかもしれないとは言え、類似した選好の下に共同体を偶然にも形作ってしまった人間達の一員としてその責務というかそういったものがあるのではないかと思う。でもまあな、人間って怠惰な部分はあると思うし、つまらないないと思った話とか無理してまで聞きたくないやん。授業を聴いていなかったとしても、とりあえずは参加しましたよーと申し訳程度に言うってのがこの最初の仮説ね。出欠カードに授業の感想を書く奴はおらんやろってこと。



次にフィードバックを出したくないって仮説。フィードバックを出したくないということについて考えられるのは2つや。一つは相手に対してのスタンス。要するに相手の事が気に入らないということ。気に入らない相手やコミュニティーを利する行動を取るのは合理的じゃないよな。



もう一つは、コメントを求められるまでの流れの中で、有益な考えを得たが、公開しない方が自分の得になる可能性が高いと考えた場合や。これも合理的や。確かにその集団全体や、その意見を受けてさらに何かを掴む人が出て来るという機会損失を生んでいるのでマクロで見た場合の最大幸福ではないかもしれないが、その場にいることが一度きりだったり、などと言ったときは意見を腹に抱えて自分の糧にした方が良い事もあるのかもね。知らんけど。



最後の3つ目は名寄せに絡む問題や。意見を言わない方が良い。自分の発言がどこの便所の落書きに公開されているかもしれない、沈黙は金、みたいな考えや。いるやん、話してみたら色々考えてんのに、全然アウトプットする気のない奴って。いやあそりゃあね、「今日○○が○○なこと言ってた〜」みたいなことを勝手に書かれて痛い目にあったことのある人はせんやろ。セカンド童貞的な。だからミサワみたいに「とても考えさせられた(キリッ」と言っておくのが生存戦略なのかもね。




という訳で、「考えさせられる」という発言にはその内容とは別の働きがあるので今後も一向になくならない文化だと思いました。




だめだ、ろくに考えられない。こういった話を考える枠組みを持っていないのは痛いよなあと最近常々思う。某のむっちゃ長い記事を読む度に思考の長さがあっていいなあと思っていたのは内緒な。



ああ、「おおかみこどもの雨と雪」は面白かったし、とても考えさせられました。ここでの「考えさせられた」は、「人によって色んな感想を持つと思うので、あえて僕の感想の押し付けはしません。」みたいなニュアンスでしょうかねえ。取りあえず一橋勢は見ておくといいと思うお。以上、レポッス。



はあ...比較的に死にたい。